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メディア効果 II

新しいレストランに行く前に、必ずREDnote(小紅書)を開く。たまにではなく、毎回。旅行の計画、商品のレビュー、カフェの評価、すべて他人のおすすめを確認してから決める。ずっとこれは当たり前だと思っていた。むしろ賢いやり方だと。多数派に従えば、大きく外れることはない。

Katzらの1974年の「利用と満足」研究は、まるで自分のことを書いているようだった。受け手は能動的で、明確なニーズを持ってメディアを利用する、と彼らは言う。私のニーズは判断ミスのリスクを減らすこと。選んだメディアは小紅書。自発的で、目的があって、合理的。このフレームワークに当てはめると、私の行動は完全に筋が通っている。

ただ、Katzがそれ以前に書いた「コミュニケーションの二段階の流れ」では、情報はメディアから受け手に届く前に「オピニオンリーダー」を経由するとされている。小紅書で見ているレビュー系のブロガーたちは、まさにこのオピニオンリーダーではないか。彼らがすでに一度ふるいにかけた結果が、私の手元に届いている。自分では「情報を調べている」つもりでいたが、実際には知らない人たちが代わりに下した判断を受け取っているだけだった。

問題は、この状態を私はむしろ気に入っているということだ。友人に、自分は試行錯誤が好きなタイプではないと言ったことがある。でも最近思うのは、この「試行錯誤が嫌い」というのは元々の性格なのか、それとも小紅書が試行錯誤を不要にしたから生まれた感覚なのかということだ。いつでも「正解」を検索できる状態では、自分で探る行為がただの無駄に見えてくる。もし後者なら、「利用と満足」が言う「受け手はニーズを持ってメディアを使う」という主張には問題がある。そのニーズ自体がメディアによって形作られたものかもしれないのだから。

Hallは、受け手のデコードはエンコーダーが設定した枠組みに制約されると言う。彼の言う枠組みはかなり抽象的だが、私が日常で経験しているものはもっと具体的だ。何かのイデオロギーに縛られているのではなく、アルゴリズムとブロガーで構成されたレコメンドシステムが、「良い」とは何か、「行く価値がある」とは何かを定義している。このシステムの中で私がするすべての「選択」は、それが引いた境界線の内側にある。しかも私はこの状態にすっかり馴染んで、心地よいとさえ感じている。でもこれだけのことを分かった上で、明日出かける前にもやはり小紅書を開くだろう。枠の中にいると知ることと、そこから出ることは、まるで別の話らしい。では「知っている」ことに何の意味があるのだろうか。


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