最近、Where Winds Meet(燕雲十六声)というオープンワールドゲームにハマっている。それ以前は原神をプレイしたり、友人がゼルダを遊ぶのを見たりしていた。この三作の基本構造はほぼ同じだ。マップを探索し、クエストを受け、レベルを上げ、素材を集める。画面を消してメカニクスだけ残せば、区別はつかない。それでも原神やゼルダには惹かれず、燕雲だけが好きだ。理由は単純で、武侠の世界観だから。ゲームを「遊んでいる」というより、再現された歴史の中を生きている感覚に近い。
AdornoとHorkheimerなら、これは自己欺瞞だと言うだろう。『文化産業』における彼らの核心的な主張は、文化製品は表面上多様性を提供しているように見えて、実際にはすべてが標準化されているということだ。異なるブランドの自動車は一見それぞれ特徴があるように見えるが、根本は同じものであり、消費者は些細な違いに引きつけられ、自分で選択していると思い込む。この論理に従えば、燕雲と原神の違いもまた虚構ということになる。古風な世界観は、私の好みに合わせて精密に調整された外殻にすぎず、その下にあるゲームループや感情のリズムは同じ型から作られている。
パターン化されているという指摘は認める。オープンワールドゲームは今日に至るまで、メカニクスの革新余地が確かに限られている。しかしAdornoが「標準化された形式」を「無意味な内容」と結びつけるのは、飛躍がすぎる。燕雲が描く宋遼時代の庶民の暮らし、建築、礼儀作法は、簡単に差し替えられるスキンではない。ゲーム内での体験は没入型の歴史ドキュメンタリーに近い——その時代の一人の人間として、一人称で物事を経験する。歴史書を読むときの俯瞰的な視点でもなければ、古い町並みを観光で通り過ぎるのとも違う。この体験は形式と内容の両方で成り立っていて、どちらか一方を取り除けば成立しない。
Rossは『The Naysayers』の中で、BenjaminとAdornoの対立を描いている。Benjaminは機械的複製が芸術を儀式的な束縛から解放し、大衆が工業化された形式の中でも本物の体験を得られると考えた。Adornoはそれを芸術への裏切りだとみなした。私にはこれらのゲームのパターンがはっきり見えているし、見透かしたことで退屈に感じることすらある。だが、パターンを見抜くことと、その価値を否定することは別の話だ。
Adornoの前提は、文化産業が生み出す体験は操作されたものであり、加工されていない体験だけが本物だということだ。しかし、その境界線は本当に引けるのだろうか。歴史そのものが語られ、選別されたものだ——勝者が書いた歴史もまた、一種の美化ではないか。書かれた歴史が加工されたものであることを受け入れるなら、ゲームによる歴史の再現だけを「欺瞞」と呼ぶ根拠はどこにあるのか。形式は変わっても、文化の伝達は止まっていない。宋代の歴史書を一度も開いたことのない人間が、一本のゲームをきっかけにその時代に興味を持ち始める——これは文化産業に取り込まれたということなのか、それとも文化が自ら新しい道を見つけているのか。